*本エッセイは、別メディアにて執筆した記事を、記録用に転載したものです。


昨年末、私にとって大切な場所がひとつ、なくなった。

ある1軒の家が、取り壊されたときのことだった。私自身が生まれて間もないころから上京する18歳まで、多くの時間を過ごした場所。

その跡地へ行くと、青い木造の農業用倉庫だけがぽつんと残され、あとはすでに更地と化していた。

一抹の寂しさが残ったが、ひとつの時代が終わったような気がした。

その場所は、自宅から車を走らせて30分ほどのところにある。

まだ私が幼かったころ、母が家事や育児に疲れたときにつかの間の休息をとるため、母自身が生まれ育った場所でもあり祖父母が暮らすその家を、たびたび訪れていた。

木の柱や梁が太くがっしりとした、昔ながらの家。母屋から土間を通してつながるもうひとつの扉の向こうには、建具職人だった祖父の仕事場が広がっていた。

「じいちゃーん!」

祖父母の家を訪れ、そう私が声を張り上げて呼んでも、そんな声はまったく届かないほど大きな音を立て、電動のこぎりやらかんなやら、木工用の機械たちがいつも忙しく動いていた。木のいい匂いでいっぱいの仕事場。しかし、鋭い刃を持つ機械類があって危険だからと、小学生くらいまでは、なかなか作業場に入れてもらうことはできなかった。夏休みのあいだに捕まえたカブトムシを飼育するため、おがくずをもらいに行くときだけは、唯一、足を踏み入れることが許された。

自宅の建て替えが決まったときも、祖父は、娘夫婦のために、大工さんやほかの職人さんに混じって自らの手で神棚や扉を作り取り付けてくれた。そんな祖父の後ろ姿は、今でも、驚くほど記憶の中で鮮明だ。

また、そんな職人かたぎの祖父に長年連れ添い、おしゃべり好きだった祖母は、いつも、私たちが自宅へ戻る時間になると、門の外まで出てきて私たちが乗った車が見えなくなるまで手を振って見送ってくれていた。行くとなぜだか安心して、じんわりと心が温かくなって帰ってくる、そんな場所だった。

祖父が亡くなってから十数年の月日が経とうとしていた昨年の春。

その家に一人で暮らしていた祖母も、亡くなった。もうすぐ、ひ孫に会えるという日の、ちょうど1ヶ月前のことだった。

母はとうの昔に嫁に出ているし、姉である伯母も、10年ほど前に祖父母の暮らす家から車で5分ほどの別の土地に家を建て、家族とともに住みはじめていた。

そのため、祖母が亡くなって家主を失ったその家は、半年ほど、空き家の状態となっていた。

そうこうしているうちに、お隣さんが譲り受けてくれることで話がまとまり、老朽化していた母屋と祖父の仕事場だった建物は取り壊しが決まった。

伯母と母は、意外にも潔く決断した。

 

それからは、あっという間だった。

家屋内の食器など祖父母が生活してきた品々を廃棄する作業のため、母はその家に足繁く通いだした。五十数年の母子手帳やへその緒、母が初任給で祖母へ初めてプレゼントしたという腕時計など、思い出の品を一部だけ持ち帰った。

最後は、専門業者による処分品の搬出と解体作業。着手すると予想以上に早く作業は完了した。

空き家になるという問題は、都会であれ、田舎であれ、ここ数年は特によく聞く話である。

その一方で、私が少し前まで住んでいた東京のベッドタウンである街では、ファミリー向けの新築マンションが次から次へと建設されている。

日が経つにつれて、どんどん空高く伸び上がる高層マンション。

新たにその場所に住む人がいて街が新陳代謝される反面、どこかの街では、空き家や、これから空き家になる可能性のある住宅が増えているということなのだろう。

現に、祖父母の家があった地域は、少子化や人口の流出に歯止めがかからず、近い将来、存続できなくなるおそれがある自治体である“消滅可能性都市”に指定されていた。

 

そういえば、母は昔からよく言っていた、「形あるものはいつか壊れる」と。

それは、裏を返せば、「形ないものは残り続ける」とも言えるのではないだろうか。

 

祖父母の家はなくなり、帰りたいと思ってもその場所はなくなってしまったが、その場所で祖父母たちと過ごした思い出を、私は、生涯忘れることはない。

思い出の詰まった家を壊すこと、土地を手放すことは、とても勇気がいる。

しかし、その場所は、また新たな家族へと引き継がれ、誰かの思い出の地となる。

もし、お隣さんちの子どもたちが都市部へ進学した後、結婚をし、再びこの土地へ戻ってきて家を建てる……なんて想像すると、まだ見ぬ未来が楽しみでもあり、嬉しくなる。少しでも可能性のある未来を紡ぐ手助けができたのだ、と。

 

だから私は、伯母と母の決断を、誇らしく思う。