*本エッセイは、別メディアにて執筆した記事を、記録用に転載したものです。


「まーた失敗した。 もうこれで3回目」

クリスマスも目前に迫ったある日。
オーブンの中の天板を見つめ、私は、ため息まじりにそう呟いた。

その日、私は意を決して伊達巻を焼いていた。 クリスマスケーキではなく、だ。

なぜ意を決するのかというと、いつも頼りにしている料理本のレシピによれば、一度に卵を6個と、砂糖をはじめとする調味料もそれなりの量を使う。卵10個入りのパックならその半分以上を費やしてしまうのだ。

だから「今日の気分で、ちょっと作ってみよう。」というわけにいかない料理なのだ。

そんな伊達巻は、おせち料理の定番で、まさに「ハレの日」にふさわしい料理だった。

毎年、年末年始を過ごす夫の実家で伊達巻を作るが、昨年はその出来にいまいち自分では納得できておらず、今年はその失敗を繰り返すまいと、数日前に練習していたのだった。

しかし、私は、伊達巻を作るのがどうも苦手らしい。

小さい頃から何事もそつなくこなしてきたつもりだった。自慢ではないが、学校の勉強も運動も習いごとのピアノも、ズバ抜けて上手いわけではないのだが、それでも平均値か、それ以上の位置にはだいたい滑り込んでいた。

しかし、料理だけはずぼらで大雑把な性格が災いしてか、いつまで経っても苦手意識が抜けず、自信を持つことができずにいた。

この日できあがった伊達巻も、思っていたより薄く焼き上がってしまい、想像していたものより食感も少々かため。 鬼まきすで巻いてみたものの、料理本や雑誌の写真で見るようなものとは違って、どこか貧相で寂しげな気もする。

子どものころのおせち料理といえば、祖母や母が気を張って作ってくれたものを片っぱしから「味見」という名のつまみ食いをしつつ、今か今かと完成を楽しみに待つものだった。 餅つきの様子を横目で見つつ、私はもっぱら食べる係に徹していた。

そんな私も、気づけば「作る」側へ。

何度やってもその日の環境や設備など小さな変化で結果は違ってきて、失敗を重ねつつも、なかなか克服できないからこそ挑み続けたいとも思うのもまた、料理だった。

使い古された言葉かもしれないが、母は昔から私に「男は胃袋で掴め」ということを口酸っぱく言っていた。

「男」の部分を「家族」に置き換えて、ここ数年は特に、そのことを身をもってひしひしと感じるようになっていた。

家族ができた今、料理は自分のためだけに作るものではない。
私にとって料理は、作り、食べてくれる相手がいて成立する、コミュニケーションツールのひとつにもなった。

 

大晦日の前日。

まだまだ乳飲み子である息子を寝かしつけた後、家族が寝静まったころに再び台所に立つ。 おせち料理の下準備をするためだ。

2リットルの水に昆布とかつお節を浸す。 かんぴょうや干し椎茸など、戻す必要があるものも、この日のうちに水に浸しておく。

時間がかかるにんじんの飾り切りや、ほかの野菜の下洗いに切りものも、ひととおり準備して保存容器にセットしておくと心強い。

シンクに当たる水の音が息子が眠る部屋まで響かないように、蛇口から細く出してそうっと、そうっと。

こうして準備を整えるも、例年のごとく、大晦日の日は朝から大忙し。
息子の授乳やオムツを替える合間に、ねんねのときに、そのすきを見てはおせち作りを進める。

「なんやかんやとクタクタになる年末年始は、毎年、風邪をひくのがオチだった」と母が言っていたことを思い出す。

そんな慌ただしいときでも、手間ひまかけて作ったものを出したときの家族の顔を想像すると、包丁がまな板を打つ音も小気味よい。

食材こそお正月ならではの「ハレ」のものが並ぶが、例えばカレーの日だって、おでんの日だって、日常の食卓でも食べてくれる家族の顔を想像しながら、わくわくした気持ちで料理をしたいものだ。

健やかな心と体を整える「ケ(褻)の日」の食事があってこそ、「ハレ(晴れ)の日」を目いっぱい楽しむことができるのだから。

 

こうして無事に迎えた元旦は、新年のあいさつも早々に朝からごちそうが並ぶ。

今年も一年のはじまりを、家族全員、元気に迎えられたことを喜びながら、食卓を囲んでおせち料理をつまむ。

「おいしいね、この昆布巻きの中には何が入ってるの?」
「今度、このレシピ教えてよ」
ひとこと、ふたことと、目の前の料理をきっかけに家族の会話が広がる。

「こんな大ごちそう、かなわんねえ。」
90歳を迎えてもバリバリの現役で、今でもおせち料理を作る夫の祖母は、方言混じりにそう呟いた。

その言葉を聞いたときは、新米嫁として、ひとつの役目を果たせた気がして、心底安心した瞬間だった。

こうして、これからも私は、毎年、伊達巻を焼き続けるだろう。
自分が心から「おいしい」と思える、納得できるものが作れるようになるその日まで。

そして、ハレの日もケの日も、丸ごと愛せるように。