「魚が食べたいな〜。でも簡単に済ませたい」というときに繰り出すのが、必殺、しらすパスタ。
しらすはうまみが凝縮されていて骨もないし、子どもも食べやすい。小ねぎをこれでもか!というくらい投入するのが好みです。
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さて、タイトルにもある「整えて出す」。
これは仕事にもなっている反面、自分の足かせになっているな、と感じることが最近、よくある。
Web上の自分メディアとして、このブログと、SNSではInstgramを主に更新しているのだけど、どちらも、更新頻度が決して「高い」とはいえない。
「表現としての文章も写真も好きなはずなんだけど、どうしてだろう?」ということをぼんやり考えていた。
その理由を考える中で出てきたが、冒頭の
「整えて出す」ことへの執着心なのでは?
という結論。
これまででいうと、Webや紙媒体の制作、スタイリングなど、文章・ビジュアルで「伝える」仕事をしてきて、そのどれもが一定のクオリティまで「整える」ことを求められてきた。
それが自分の発信に関しても適用、混同してしまって、心のブロックになっているんじゃないかなあと思ってる。
例えば、料理写真。
Instagramで写真を見るのも、自分で撮るのも好き。中でもInstagramで見る料理写真は、なるべく「自然体」である写真、その場の空気感をも写したような写真に心を奪われることが多い。
「自然体」が好きなはずなんだけど、自分で撮るものに関しては、できるだけ「美しい部分」を写したい、残したい、という欲求があることに気がついた。
そして、心のどこかで
「このクオリティじゃ出せない」
「こんな写真、見たい人いるのかな?」
「こんな文章読みたい人、いるのかな?」
と思っている自分もいる。
でも、それが、好きなはずの「写真」や「文章」をアウトプットできない、更新頻度が低い原因になっているな〜、本末転倒だな〜って。
スタイリングも写真も、文章も、細部までこだわって作り込む過程は大好きなんだけども。
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あと、同じ媒体(ここでいうブログ内の記事)の中で「ですます調」と「である調」であることの混在が気持ち悪くて、ずっと「ですます調」で統一するという変なこだわりがあった。
でも、今日は「である調」のほうが自分の中でしっくりきていて、その気持ちに素直に従って書いてみている。
こんなふうに、こと自分のブログやInstagramに関しては、もっと「おおらかに」もっと「自分勝手に」を意識して書いていきたいと思う。
ある程度、体裁を整えることは必要だけど、ここではもっとわがままに、どちらかと言うとライブ感や熱量を大切にしてコンテンツを作っていこう。
そのほうが、心に伝わるものがきっとあると思うから。
今日はそんな、所信表明のようなものでした。