「さおりちゃん、家で仕事しとるんじゃろ。家で着るのにちょうどええ服があるんだわ。あとで見に来てみて」

年末に夫の実家に帰ったとき、夫の祖母がコテコテの名古屋弁でわたしにそう言った。

それを一緒に聞いていた夫の母からは「無理にもらわなくていいからね」と言われつつ、しばらくして「見てくるだけ見てきます〜」と祖母の住まう別宅へ向かった。

そこには値札がついたままの新品のセーターや羽織、ストールなど、冬物の服が20枚以上、座敷に広げてあった。

「あれ、意外と着れそうかも……?」と思うのものもチラホラあって、そこから直感的に気に入った2枚のセーターを厳選して持ち帰ったのだった。

茶色のセーターは肩パッドが入っていたが端を糸で付けてあるだけだったので、その糸をチョキンッと切って肩パッドを外した。

もらったセーターは家以外にもショッピングやちょっとしたお出かけにも着ていて、意外と活躍してくれている。

94歳という年齢の割に元気で体も丈夫。バリバリ畑仕事もこなし自分の意見をはっきり言う祖母。

夫の祖母と話していると、幼少期に一緒に暮らしていた自分の祖母ともどこか似ていて、祖母の面影を感じるのだった。

実家に住んでいたとき、夕方は共働きの両親に代わって祖母と過ごすことが多かったせいか、わたしは自他ともに認めるばあちゃんっ子だった。

当時、わたしは「人は必ず死ぬもの」という現実が受け入れられずにいた。

わたしは祖母の年齢がある程度いってから生まれた孫だった。だから家族の中で一番年上の祖母が、死の世界の一番近いところにいるということが、幼いながらにも分かっていたからだ。

夜は祖母と一緒に寝ていたのだけど、夜になるとそのことを思い出しては鬱々とした気持ちになっていたことをぼんやり記憶している。

ばあちゃんがいない世界でわたしが生きていけると思えなかった。

それくらい、わたしにとっての安全基地で精神的にも依存していたのだと思う。両親と一緒になってばあちゃんも、間違いなくわたしの土台を作ってくれた人だろう。

そんな祖母に対しても一丁前に反抗することもあった。

わたしが「ハンバーグが食べたい」と言ったある日のこと。祖母が作ってくれたのは「メンチカツ」だったのだ。昔の人なので、ハンバーグなんてハイカラな食べ物を知らなかったんだと思う……。小学生のわたしは「こんなのハンバーグじゃない!」と猛烈に怒り、祖母をきっと、悲しませた。

今なら分かる……バッター液をつけてパン粉をまぶして、油で揚げてって。メンチカツってめちゃくちゃ手間ひまがかかってるということを!

それに、祖母は近所の人の間で先生をするほどの料理の腕前だったので、メンチカツはサクサクでびっくりするくらいおいしかった。白和えもさばの味噌煮もけんちん汁も、祖母の作る味はぜんぶ絶品だった。

と、ここまで書いて気がついたのだけど、わたしが料理好きなところはきっと祖母譲りだ。食いしん坊DNAもしっかり受け継いでる。

「あぁ、ちゃんと謝っておけばよかった」

謝りたい人は謝りたいときにはもうそばにいなくて。今でも思い出すたびに胸がチクリと痛むのだった。

祖母のバイクについていって畑仕事をしたことも、祖母が営んでいた縫製工場で働いている従業員さんに可愛がってもらったことも、夏休みの昼ごはんの定番は祖母の好きだった焼き鮭ときゅうりのQちゃんをのせたお茶漬けだったことも、ぜんぶ温かい記憶として、わたしの心の奥底にある。

受け継ぎもののセーターを見て、そんなことを思い出したのでした。