*本エッセイは、別メディアにて執筆した記事を、記録用に転載したものです。


数年前、友達に誘われ、興味本位で行ってみた占い師に言われたこと言葉が、今、頭の片隅にチラつく。

「一箇所に留まらない人生よ」

思い返すと、私はこれまで、一度もアパートやマンションの契約更新というものをしたことがない。 つまり、生まれてからの18年間を過ごした実家以外で、同じ場所に2年以上住んだことがないのだ。

「千葉って都会でしょ。 ディズニーランドだってあるじゃん!」
学生時代や社会人になってから出会った地方出身の人に、私が千葉県の出身だと話すと、ほとんど決まって返ってくる言葉である。

しかし、私の生まれ育った場所は、千葉県の中でも、都心からバスや鈍行列車を乗り継いで3時間程度かかる、小さな海沿いの町だ。 時間だけ見れば、東京から新幹線で名古屋や大阪へ行く方が早いかもしれない。

家の目の前には田園風景が広がり、夕方6時以降は無人となる最寄り駅。 その駅には、上下線とも1時間に1本しか電車は止まらない。
高校生の頃、都内で行われる好きなアーティストのコンサートを観に行くとなれば、さて一大事。 終演後、最終電車には到底間に合わないため、事前に都内にある親戚の家など宿泊場所を確保。 家族会議でプレゼンを通過するなど、決死の覚悟が必要だった。
こんな風に説明するまで、千葉県出身の人以外、いや、千葉県内に住む人でさえ、多くの人には想像できないような場所である。

そんな田舎出身の私も、気づけば、東京に暮らして10年近くが経つ。 朝夕の通勤時に乗る満員電車をはじめ、都心での生活にもそれなりに慣れてきた。 ここ数年で、結婚や子育てというライフスタイルの変化も経験し、独身のときとはまた違った形で都会生活を謳歌しているところだ。

そんな折、第一子を出産。 その後の育児休業の期間を利用して、10年ぶりに地元に戻ることになった。 それは、子どもにも、私自身が育ってきたような、いわゆる「田舎暮らし」というものを体験させてみたいと思っていた、ということも戻ることになった理由の一つだ。
こうして、ひょんなことから私の二拠点居住が始まった。

田舎の朝と夜は早い。 まだ外は真っ暗で、電車や車の音もない朝。
子どものミルクを作るために沸かした白湯を、自分用のコップに少しとり分けて飲むことから始める。
天気がいい日は、小学生だった頃に毎日通学していた道を、今度は自分の子どもを抱えて歩いてみる。 この街の空は、昔よりとても近く感じる。

春の田植えの時期から勝手に見守ってきた、ご近所さんの田んぼ。 あっという間に移ろう季節を、稲穂の成長を見て確かめる。
吸い込む空気や堆肥が混じったような匂いも、都会のそれとはまた違う。

スーパーに行けば、今朝、漁港から揚がったばかりの新鮮な魚たちが丸ごと一匹売られている。 恥ずかしながら、この歳になって初めて、アジの捌き方を知った。

珍しい地元の野菜を置いている産直市場が遊び場になった。

ご多分に漏れず、ほかの地方に起きているような社会問題は、この街にも立ちはだかっているようだ。

久しぶりに歩いた駅前通りは、シャッターが閉まったままになっている店舗が目立つ。 近所だけでなく、身近な親戚の家でさえ空き家問題に頭を悩ませている。

10年ぶりに暮らす家族との時間にも、初めは戸惑いもあった。 いつまでも子ども扱いする母とは、子育てのことでたびたび意見がぶつかることもある。 10年という歳月は、人を変えるには十分な時間だった。

子どもの頃は当たり前のように目にしていた景色や人やモノたち。 大人になった今、改めて、虫めがねを通して見ているような感覚でもある。

手法はアナログかもしれないが、味わい深い。 実際に手に取ってみて、体験してこそ分かったこと。 良いことも悪いことも、一つひとつ拾い集めるように、新たな発見へと繋がっていった。
こうした思わぬ二拠点居住が私にもたらしてくれたもの。
それは、一番は「どこで暮らしていようとも、自分と家族次第で楽しくできる」という、根拠のない自信だった。

今の我が家の経済活動の中心は、東京にある。
最近では、同級生や会社の同期など、同年代の知人が都心の湾岸タワーマンションや、駅チカで戸建て物件を購入したという話も耳にする。
それは、私も、都心で生きていく上で一つの決まった「型」だと思っていた。

しかし、まだまだ、どこで生きていくのか、選択肢は自由。

そう思うと、ふっと心が軽くなった。

これからも、私は人生を、プカプカと川に浮かぶ笹舟のように、流れに乗ってしなやかに、波を乗りこなしていきたいと思う。

「一箇所に留まらない人生」

あの時、占い師に言われた言葉は、あながち間違っていなかったのかもしれない。