実家からゆずがたんまり届きました。
もう実家からくる食の届けものは「ふるさと便」と呼ぼう。
本物の“ふるさと”便。

実家の庭に昔からあるゆずの木。
小さいころは、実をそのまま食べられるわけでもなく「何に使うんだろう?」と、朽ちて落ちてしまった実で遊んでたくらい(失礼)の記憶が。

でも今やゆずは「買うもの」になっていたから、時々届けられるこういうものに季節を感じさせてもらってるし、ほんの数年前までは「なーんにもないなあ」と思ってた田舎な環境が、実はとても人間らしい、豊かな環境だったことに年々気付かされています。

「グラデーションの中に生きること」

そしてこれは最近、いいなと思った考え方です。

例えば、数年前までちょっと雑誌やWeb記事を開けば必ず目にした「丁寧な暮らし」という言葉。
「働き改革」などとあわせて、ライフスタイル側に着目したときにそういう暮らしぶりがもてはやされたんだろうけど、一周回って「丁寧に暮らせなくったって別にいいんや、、」という考え方もちらほら。

でもなんか、この、「白か黒か」みたいな対立構造に違和感を感じていました。

ほかにも最近の身の回りで多い人の傾向でいうと

菜食主義やプラントベースも、そう。
エシカルでサステイナブルな志向も、そう。
仕事第一主義も、そう。

一人ひとりの顔が違うように、その人の暮らしぶりも働きぶりも違う。
何と丁寧に向き合って、何を効率化するか、その価値観は人それぞれ。

私はというと、もともと“食”にめちゃくちゃこだわりがあったかと言われればそうではありませんでした。結婚する20代半ばまでは効率重視である程度のお金で解決できるものはそうする傾向にあったから、一人のときは外食やコンビニごはんにお世話になりっ放しだった(助けられた部分も多かったけど)。
「家には寝に帰るようなもの」なときもあって、興味の対象として、食や暮らしはあまり中心ではなかったな。こと家事に関していうと、料理以外、割と全般的に苦手で、何なら夫の方が得意な分野も多々……(汗)。

ほかにも私の尊敬する女性は、家事や食事作りは苦手だしほぼしないけど「子どもとめちゃくちゃ丁寧に向き合う」とか。

一人ひとりの性格、得意とする分野、ライフステージに合わせて優先順位は常に変動するものだから「この考えは拒否」って姿勢でいると新たな可能性を狭めてしまうな、ということを最近よく思います。

というか、そっちの方がより人生楽しそう!って気がするというだけとも。笑

許容する余白を持っておくと「人に興味が出る」し、「へえ〜」「ほお〜」と驚きや発見が楽しいこの頃。

だから「グラデーションのなかに生きる」っていうのは、なんかいいなと。
白黒つけ過ぎなくても、あっちもこっちもいいとこ取りして自分の「スタイル」を作っていけばいいんじゃないかなあって。

私はそういうとき、ものことを選びとる判断基準は「自分が心地いいか否か」。
もっぱら直感に従って生きてます。笑

 

そんな風に価値観や考え方、優先順位が変動するなかでも、私は田舎住まいで祖母や母が当たり前のようにしてくれたように季節の野菜で料理を作っていたいし、ゆずがたくさん届いたなら、それを仕込むことができるくらい心と体の余裕を持っていたいな、と思います。